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  • 梶原

【ザ・チーム】ここが私のネイバーフッド


【ザ・チーム】ここが私のネイバーフッド

途上国、山村集落、被災地、繁華街と様々な土地でコミュニティ支援に携わり、現在は大規模団地の浜甲子園でエリアマネジメントを担う奥河洋介さんに、自身の原点について聞きました。

Q 4歳でラグビーを始めたと聞きました。「1対1の人間関係をつくり、そのネットワークから連携事業を生み出す」という奥河さんのコミュニティ支援のスタイルには、「自分がボールをキープするより隣の選手にパスを出した方がより良い状況をつくれる」というラグビーのチームプレイ精神を感じます。コミュニティ支援とラグビー、何か通じるところがありますか?

そう言ってもらえると嬉しいです。ラグビーではチームのために何ができるか常に考えて行動していました。その経験が、一人ひとりの声を聞き、新たな自治の仕組みづくりにチャレンジする今につながっているのかもしれません。

子どもの頃、父が甲子園チビッ子ラガーズクラブのコーチをしていて、私も4歳から始めました。幼稚園の時は泣きながら通っていたのを覚えています。毎週日曜日9時半から12時までの練習が、小6まで続きました。

中高は陸上部の中長距離選手でした。足は学校で一番早かった。ラグビーで鍛えられていたので基礎体力が高く、何をやってもスポーツはそれなりにできました。でもこれと言って打ち込めるものがなく、高校時代はくすぶっていました。ラグビーをやりたくて仕方がなかった。

関西学院大学に進み、体育会ラグビー部に入部しました。ラグビー一色の4年間でした。週4で筋トレして、プロテイン飲んで、もうこれ以上食えへんっていうくらい食って。部員は60名くらいいましたが、そのうち高校時代にラグビーをやっていないのは私を含めて3~4人でした。公式戦には一度も出られませんでした。

悔しくて、つらくて苦しくて、怪我も多くて。選手として活躍できない自分の役割は何なのか、チームのために何ができるのか考えて取り組むしかなかった。なんとか4年間、頑張り続けることができました。

就職先は大手メーカーの法人営業でした。東京で4年半、サラリーマンをやっていました。営業のメンタリティを叩き込まれ、社会にさらされ、ゴルフや残業は当たり前で、案件が決まれば数千万の契約になりました。休日は仕事か同期と飲むか、死んだように寝るか。

いつの間にか自分が消耗して、サラリーマン社会の日常に違和感を覚えるようになしました。かと言って、会社の同期にも負けたくない。自分がもう一度頑張れる分野はどこか。ゼロからやってみよう。JICAの青年海外協力隊に応募し、アフリカを希望しました。

Q アフリカのどこへ派遣され、何に取り組みましたか?

セネガルの田舎町クサナールに2年間派遣されることになりました。首都ダカールはアフリカ大陸の西端に位置し、ダカール・ラリーで有名です。私が派遣された村は首都から車で10時間、セネガルへ派遣された隊員13人のなかでもかなり奥地でした。

隊員には看護師、助産師、小学校の先生などがいました。何の資格もない27歳の私に与えられた任務はクサナール周辺の村落開発。ノルマも数字も求められない代わりに、課題は自分で見つけなければなりませんでした。

営業で染み付いた「上司に言われたことは愚直にこなす」という受け身の姿勢を切り替えることに苦労しました。誰も何も指示してくれない。クサナールは田舎過ぎて、渡航前に2ヵ月缶詰で勉強したフランス語も通じませんでした。

周辺には人口数百人くらいの集落がたくさんあり、私はバイクで砂の道を走りながら挨拶して回りました。文字を持たないプラール語を身振り手振りで少しずつ理解し、歓迎の印と出された半分発酵した山羊の乳を一息に飲み、祭りでは全身全霊で踊ることもありました。

毎日、自分のギリギリを突破しながら住民に受け入れられていきました。がむしゃらに動く中でここにいる意味を模索し続けました。

赴任して8ヵ月目、一つの答えは、村の女性グループと野菜栽培を始めることでした。色んな村へ通って話を聞くうちに、男性は遊牧へ出るので女性は何か新しいことを始めたいと思っていること、子どもたちにトウモロコシなどの穀類ばかりでなく野菜を食べさせたいと思っていることが分かりました。

私は都市部で種を買って、それを小分けにして5円で女性たちに売りました。柵をつくり、畑を耕し、栽培方法を工夫し、収穫する喜びを味わう。そんな活動を周辺集落に広めていきました。現状をヒアリングしてプロジェクトを起こす、今に繋がる取組みをセネガルで始めていたのかもしれません。

ここでの2年間、孤独を感じることはほとんどありませんでした。マルシェに行くだけで100人と握手して挨拶するような土地柄です。何でも手伝ってくれるご近所さんの温かさにも救われました。帰国する時、これだけ人とのつながりに恵まれて安心して暮らせるのは人生最後かも、と思いました。

Q その後、兵庫県養父市、宮城県南三陸町、大阪市淀川区と全国でまちづくりに携わり、現在は大規模団地の浜甲子園でエリアマネジメントを行っていますが、コミュニティ支援のやりがいは何ですか?

「まちづくり」をずっとやっていきたいと思ったことは、なかったんです。人との縁や、困っている人を助けられる位置にちょうど自分がいたりと、振り返ればこの畑でやってきました。

まちのね浜甲子園では「ネイバーフッドデザイン」に取り組んでいます。“しがらみ”ではなく、緩やかなちょうどいいコミュニティとの“つながり”をデザインする。参加してみたいと思ってもらえる企画を練りながら、気軽に立ち寄れて居心地のいい場をつくっています。

私はチーム(コミュニティ)に貢献できているか?仲間(住民やスタッフ)のために役に立てているか?と今でも考えることはあります。チームに入る仲間を一人でも増やしたいし、皆で喜び合いたい。そこがこの仕事のやりがいなのかもしれません。

これまでまちづくりで携わった地域の方々とは今でも交流が続いています。さすがにセネガルは無理ですが、養父も南三陸も淀川も、たまに訪ねては飲みに行ったりしています。浜甲子園もいつか私たちの役目が終わって去る時が来ますが、その後も立ち寄って笑って喋って、そんな関係がずっと続いていく人生であればいいなと思います。(おわり)

取材・文:梶原千歳 

イラスト:阿竹奈々子


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