top of page
  • 梶原

【Season 2 予告】“未来の共同体”を考える


月刊コミュニティ(本稿)の取材・文を担当するCラボ研究員の梶原千歳です。

本稿では、Cラボが運営する「まちづくりセンター」を中心に、地域自治や地域学習に取り組むキーパーソンにお話を伺ってきました。新しい事例、面白い活動について取材するなかで、何よりもインタビューイの人柄に魅了されました。

2020年から始まるシーズン2では、自治や教育という垣根を越えて、多様な文化背景を持つ人々にもフォーカスし、彼らのストーリーから多様性を受け入れるグローバルな共同体のあり方についても考えたいと思います。

まずは南米アルゼンチン。ヒッピー精神とパリ文化が交錯するブエノスアイレスの物語を私からお伝えします。

読者の皆さま、本年はCラボHPを訪ねて下さりありがとうございました。

新年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

梶原千歳 かじはら ちとせ

一般財団法人大阪市コミュニティ協会 都市コミュニティ研究室(Cラボ)研究員

平成27年入社。阿倍野区まちづくりセンター、港区まちづくりセンター支援員を経て、現職。

 

アルゼンチンとの出会い

大学の図書館でブリタニカ百科事典をぱらぱらとめくっていた時、何の気なしに「あ」行の「アルゼンチン」を引き当てました。

南米のパリ、移民の国(ヨーロッパ系が97%)、4,500万の人口のうち1/3は首都に住み、ブエノスアイレスには世界三大劇場のコロン劇場があります。人よりも牛が多く、北にはイグアスの滝、南には氷河、西にはアンデス山脈、大西洋にはトドとクジラ。主食はパンと肉とワイン。

パンパで牛とともに暮らすガウチョ(カウボーイ)、チェ・ゲバラが生まれた国、タンゴにジャズを取り入れたバンドネオン奏者のアストル・ピアソラ、“神の手”を持つと言われたマラドーナ、マドンナ主演で映画にもなったペロン大統領夫人のエビータ。

留学試験では、第1志望をスペインに、第2志望をアルゼンチンにしました。結果、日本から一番遠くてヘンテコな国へ行くことになりました。

渡航前夜

私は京都外国語大学でスペイン語を専攻していて、4回生の時に奨学金を得てアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスに留学しました。渡航したのは2003年、アルゼンチン金融危機(デフォルト宣言)から2年後のことでした。

国内の人々はコラリート(Corralito:預金封鎖)とインフレの影響で、「持家の夢も泡と消えた」と目減りした預金に泣き、腐敗した政府を厳しく批判していました。中国系スーパーへ行った時には、「セニョリータ、なんでまたこんな国にやって来たの。全く私たちは移民先を間違えたわ」とレジを打ちながら同情されました。

渡航前夜、私は高熱を出しました。「先生、明日の飛行機にどうしても乗らないといけないんです。」債務不履行になったアルゼンチンに行くとは君も勇敢だね、と点滴を打ってくれました。ちょっと痛かったです。先生はきっとアルゼンチン国債を買っていたのだと思います。

行かずにはいられない体の震えがありました。

バンコクの香りで世界を知る

初めて海外へ行ったのは小学5年生の時。両親が漆器屋を営んでおり、得意先がバンコクにありました。路上で物乞いするお婆さん、ビニール袋に入ったオレンジジュース、露天で売られるパパイヤポクポク(青パパイヤのサラダ)。香川県しか知らなかった私には、全部が鮮烈で、世界が大きいことを知りました。

4つ上の姉は、高校を卒業すると米国ポートランド州立大学へ行ってしまいました。2つ上の兄は、大学が長期休暇に入ると80Lのバックパックを背負って、東南アジアを鉄道で縦断したり、ヨーロッパをユーレイルパスで周ったりしていました。

父は華僑のように、子どもたちが海外に散らばることを夢見ていました。一方、母は源氏物語などの日本の古典が大好きでした。

僕らのアイデンティティ

私は結局、かの地に3年暮らしました。現地の大学を修了した後、日本大使館の広報文化センターで働きました。外務省からやって来た文化長官はとてもファンキーで、9~17時の開館を延長して、夜には現地の若手アーティストを招待して展覧会やパーティーを開きました。

地下には図書館があって、活字が恋しくなると私はそこで辻邦夫を読みました。三島も谷崎もトルストイもスタンダールも、アルゼンチンで初めて触れました。

・マリとジャルディーンとジル

最初の1年、同じ留学生のフランス人と仲良くなりました。私は月10万円の奨学金をもらっていましたが、ペソが暴落した現地では5倍くらいの価値がありました。国内の人にとって暮らしは大変でしたが、外国人には夢のようでした。ヨーロッパからたくさんの旅行者が訪れていました。

ブエノスアイレスは美食の街です。フレンチ、イタリアン、スパニッシュはもとより、ペルー料理に中華、ポーランドのウォッカバーからシャルキュトリ(ハム、ソーセージ、パテなどの総称)まで、お洒落で美味しいお店が軒を連ねます。どんなに良いレストランに行っても3,000円を超えることはありませんでした。

マリとジャルディーンとジルの3人と「フランスでは考えられない」くらい毎週のように流行りのレストランへ行きました。夏には一緒に北部へ旅をしました。フルリクライニングになるバスに乗って24時間、パンパというのは本当に大平原なんだと、どこまでも続く大地をずっと眺めていました。私たちは小さな村を訪ねたり、渓谷を何時間も歩いたり、ドミトリーの庭でジェスチャーゲームをしたりして、気ままに過ごしました。

アルゼンチンにはかつて広い国土に鉄道が張り巡らされていました。しかし、国営企業の売却によって民営化された後、廃線となり、長距離バス網が発達しました。日本のそれとは比べ物にならないほど快適です。

・マキシミリアーノ又吉

マキシミリアーノは日系人です。沖縄から移民したお父さんについて「Gaijin」という小説を書き、大手出版社の賞を獲りました。書くこと、写真を撮ること、カンフーをすること、ワインと音楽、資本主義に反するものを好んでいました。世界は悦びで満ち溢れていると感じさせる人でした。

私は3年間で引越しを7回しました。友人とシェアしていたマキシミリアーノのアパートにも半年ほど泊めてもらいました。彼は、日曜日の朝はボブ・マーリーに限るよねとボリュームを大音量にして、箒で床を掃きました。

家のガスオーブンでパステル・デ・パパス(じゃが芋を使った料理)を作り、10ペソ(当時3ドルほど)の赤ワインを開けました。アルゼンチンはマルベックという品種の世界的な産地です。濃厚で果実味があり、手頃でも味は良質です。

一緒に街角のオールドカフェや古い地区にあるバル、蚤の市へも行きました。親友のセバスチャンはミュージシャンで、彼のバンドのパーカッションの即興演奏は世界一クールだと思いました。国立ブエノスアイレス大学の工学部を中退したセバスチャンは打楽器を自作していて、それを蚤の市で売っていました。

今は家族と地方へ移り住み、自給自足の暮らしをしています。マキシミリアーノもまた家族ができ、子育てのために地方へ移住しました。

・ブエノスアイレスの女の子たち

マリア・ホセは、パンクな女の子です。大学の文学部に通いながらWebデザインの仕事をし、明け方までライブへ通っていました。試験前になると泣きながらマキシミリアーノに助けを求めるのが常でした。フェルネ(フェルネット・ブランカ:27種のハーブを熟成させた苦いリキュール)が好きで、私にはコーラ多目で割ってくれました。

アリアドナは身体的なもの全てに興味を持っていました。早口で饒舌でしたが、身体を使ったコミュニケーションが自分を一番表現できると言っていました。私たちはよくタンゴのダンスホールへ行きました。夜8時に開店し0時には満場。10代から80代まで、明け方まで踊り続けました。彼女が躍るロックもまた最高でした。色んなダンスや表現を学んだ後、アリアドナはヨガトレーナーになりました。

7回目の引越しをして、コンスタンサとシェアメイトになりました。アーティストの彼女は、女性の身体をモチーフに水彩画を描いていました。たまにヌードモデルをしていました。彼女が絵を描いた後のリビングのテーブルは、それだけで静物画になりそうな光景でした。私たちはよくそこで他愛もない話をしました。

みんな個性的で、20代の私たちはとても多感でした。それぞれにアイデンティティとか将来とか言うものを掴もうとしていました。

不安定な国内情勢もあって、敷かれたレールというのもなく、個人として独立することを望んでいました。落ち込んだり悲しんだりすることがあっても、翌朝には忘れていました。

ブエノスアイレスで過ごした日々の思い出は私の心に深く刻まれ、折に触れて私を励ましてくれます。心象に喚起されること、これもふと“未来の共同体”かと思うことがあります。

文:梶原千歳 

イラスト:阿竹奈々子

bottom of page